10年目を終えて伝えたいこと
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※パチンコ必勝本2009年2月号に掲載されたものを加筆・修正しています


現在不況のまっただ中で、パチンコ店もご多聞に漏れず黒字経営で順風満帆な所など皆無に近いはずだ。バブル絶頂の頃は平日の昼間でも満席状態の店は珍しくなかったが、近年そのような光景は滅多に見られなくなってしまった。

私のテリトリー内でも少なくとも10軒以上の店がなくなっている。負けた客から恨みを買ったり、公には胸を張って言えない職業なのに、それが儲からなくなったら誰しも商売替えを考えるだろう。

しかし諸々の事情でそれができないというのが大半の経営者の本音なのではなかろうか。現に私は心労から病気を患ったパチンコ店のオーナーを何人か知っており、どんな仕事でもそれなりの苦労はあるものだが、改めてこの職業の大変さを感じている。


それに比べれば私のような輩は気楽である。仕事上の苦労はあるもののヤメようと思えばいつでもヤメられるし、たとえヤメても誰にも迷惑がかからない。そう考えると少しは肩の荷がおりてホッとしている。

ただ、いまだに年老いた両親や多くの親戚、知人に社会的に認知されてない自分の職業を明かせないのがもどかしいのだが…。

ちなみに今まで確定申告で自分の職業を「パチプロ」と書いたことは一度もない。いずれにせよそんなものは勝手に言っているにすぎないため、仮に信販会社などへクレジットカード作成の申請を依頼したとしても、仕事が「パチプ口」では100%却下されるに違いない。


ところで、アマチュアの方に是非とも言っておきたいことがある。余計なお世話かもしれないが、今は絶対にパチプ口になってほしくないということだ(少ないとは思うが目指している人がいるかもしれないので)。

この連載を始めた頃は、今と違ってまだそれほど状況は厳しくなく、攻略法で稼げる機種も探せば結構あり、8桁の年収を上げていた攻略プロや開店プロも多数存在していた。そういう連中はだいたい複数で行動していたが、私のようなピンの平打ちプロでも、マメに店回りをすれば平常営業でも仕事量のノルマを確保する台を見つけることができ、確実に月20日以上の終日稼働が可能だった。

ところが今は情報網の発達などで客側のレベルも格段に上がり、昔みたいに期待値マイナスの台に湯水のごとくお金を使う人は珍しくなった。そして現在の大不況である。当然パチンコ店の方も前述したように厳しい状況なので、トッププロといえども毎日打つ台をキープするのは困難となっている。ちなみに知り合いのパチプロで昨年以上の収支を上げた者は一人もいないというのが実情だ。

たとえ稼げたとしても、間違っても以前のような8桁は無理だし、成績が上がれば上がるほど周りから妬み恨みの目で見られてしまう。そして一番重要なのは、一生懸命仕事をして結果を出したとしても、身内以外に心から喜んでくれる人は一人もいないということだ。

よくテレビでスポーツ選手が「ファンの皆さんのため」などと言っているが、たいていの仕事は世のため人のために役立っている。そういう思いがあるからこそ、苦しい時でもなんとか持ちこたえられるのだろう。しかしパチプ口にはそれが当てはまらない。


最近はパチプロを否定するようなことばかり書いているが、なぜそうなったのかというと、以前このコラムを見てパチプロになったという男性から一通の手紙をもらったことがきっかけだ。そこには次のようなことが書かれていた。



私のコラムを見てから会社を辞めてパチプロになり、なんとか稼げてはいたが壁にぶち当たり、何度か心が折れそうになった。そして、「私は独身なので楽に仕事に打ち込めると思っていたのですが、困難に直面し精神的に落ち込んだりした時、仕事をするのが本当に嫌になってしまいます。だから逆に、守るべき家族がいるという心の拠り所のある阿川さんが羨ましいです」と。

そのような内容の文面だった。この時私は良心の呵責を感じてしまった。考えてみれば、私がこの仕事を始めた時はすでに妻帯者であり、何を差し置いても「家族のために頑張ろう」という思いがあったからこそ何事にも堪えられたのだ。とんでもない稼働結果を出したということはこれまでも何度か触れたが、その部分についての説明は足りなかったかもしれない。

私はパチプロになった最初の2年間は、アウトドアのレジャーや大好きな虫関係の飼育など趣味や遊びのたぐいを一切封印し、毎月ひたすら300時間以上打っていた。当時の記録を見たら、初年度3827.4時間、2年目3203.8時間の打ち込みと書いてあった(並び、トイレ、店回りなどを除いた純粋な打ち込み時間である)。これは同業から見ても信じがたい数字であり、今思えばよくこんなに稼働したものだと我ながら感心している。

ちなみに現在は健康上の理由と、他のことへのスキルアップの時間を取るために、どのようなことがあっても月250時間以上の打ち込みはしないと決めており、4年前から年間2000時間以上打ち込んだことは一度もない。まあその気になったとしても、以前のように毎日打てる台がなく、体力的にも絶対無理だろうが…。


手紙に話を戻そう。もし私が彼と同じように、パチプロの駆け出し当時に独身であったなら、たぶん途中でこの仕事のくだらなさに嫌気が差して2~3年くらいでヤメていたに違いない。しかし当時、私は妻とまだ小さかった3人の子供たちを養わなければならず、新築したばかりの住宅ローンもたくさん残っており、何がなんでも稼がなければならないという、極めてハングリーな状況に追い込まれていた。

忘れもしない11年前の12月25日。若気の至りで格好良く会社に辞表を出したものの、本心は清水の舞台から飛び降りる心境でこの仕事を始めたのだ。そして悪い予感が的中し、パチプロになって初日から5万円以上の大敗を喰らい、その後も収支がなかなかついてこず苦戦が続いた。

とにかく最初の1週間は海の物とも山の物とも見当がつかない状態で負けが込み、初っぱなからこれで食っていけるのかと相当な不安を感じてしまった。かと言ってこの仕事を始めるのを反対していた妻に上手くいっていないことなどおくびにも出せず、大敗した日でも家族には努めて明るく振る舞っていた。

それに当時はまだ悩みを相談できるような同業の仲間が誰もおらず、しばらくは一人で悶々とした日を送っていた。パチプロ生活を振り返ってみると、この頃が精神的に一番つらい時期だった。

ただよく考えてみると、最初から苦労したからこそ、この仕事をナメることもなく、より真剣に取り組んでこられたわけで、今はこの時の試練に感謝している。また、手紙を書いた彼が言うように、守るべき家族の存在があったからこそ、どんなに苦しい時でも「負けてたまるか!」と気合いを入れて仕事を続けてこられたのである。


余談だが、当時はとにかく稼働最優先を徹底し、日に数回のトイレは常に小走りで往復し、大をするなどもってのほか、食事休憩も一切取らずにただひたすら打っていた。

今となっては懐かしい思い出だが、最初の2年ほどは好んでラッキーナンバー制の3回権利モノを打っていた。頻繁に通っていた店は開店から昼12時までに当たれば図柄に関係なく無制限札がもらえたので、その店においては9時からの3時間は台移動以外はどんなことがあっても席を離れなかった。よって現金サンドに投入する500円硬貨も前もって5万円分手元のバッグなどに入れて用意していた(笑)。

とにかくこの時は猛烈に稼働していたので、将来この仕事がどうなるのかとか、世の中のためになっているのかとか考える余裕はほとんどなく、2年間は何がなんでもヤメない覚悟でただひたすらデジタルを回していたのだ。


最近は稼働時間が減り、考える時間も多くなるにつれてますますこの仕事を続ける意欲が失せてきた。しかし2年連続での年間3000時間以上の稼働記録は、仕事としては他人に自慢できるものではないが、パチプロとしての自分にとってはかけがえのない勲章であり、貴重な経験だったと思っている。ただ一つ残念に思うのは、できることならその時の労力をもっと世の中のためになるようなことに費やしたかった。

今となっては当時の若い体力もなく、後戻りもできないので後悔先に立たずである。今後は私も歳なので、なるべくこの仕事を早く卒業し、人生の最終目標へ向けての旅立ちを真剣に考えている今日この頃である。ちなみに今度の仕事は今のところいつ始められるか分からず、まだ詳細も明かせないが、少なくとも世のため人のためになり、人様に胸を張って言える職業だと思っている。


最後に2008年の総括をすると、他の多くの同業たちと同様に打つ台を探すのにより一層の苦労を強いられた。その大きな原因の一つは、かつて仕事先だった店の相当数が1パチなどに変わり、貸し玉4円で打てるパチンコ台の総数自体がかなり少なくなったことだ。その結果ますます少ないパイの取り合い状態となり、ちょっとでも良い状況が続こうものなら、普段ガラガラな店においてもすぐに朝イチから何百人と人が集まってしまう状態。

今までは打たなかった期待日当2万円ちょっとの台にも手を出さざるを得なくなり、結果的に、当然のことながら時給が下がり、1年前より稼働時間が増えたにも関わらず収支が下がったという同業が多かった。ちなみに私の場合も収支は過去最低を記録した。

ただ一つ救いだったのは、自分のスキルアップのために費やした時間をより多く確保したので、稼働時間も過去2番目の少なさだった(この原稿を書いている時点で、大晦日まで10日余り残して1755.8時間)。もし将来、今年パチンコ以外で努力したことが役に立ってくれるなら嬉しいし、是非そうあってほしいと願っている。


さて、2009年はどうなるかだが、聞くところによると確率の分母が400近いバトルタイプの機種の導入が4月以降禁止され、代わりに同300台前半の機種が多数導入されるとのこと。しかし相変わらず渋い状況に変わりはなく、より一層苦労を強いられる厳しい戦いが続くものと覚悟している。

そうであればこそ、いつこの仕事が終焉を迎えようと、その時決して慌てないよう、今年に引き続きスキルアップのための投資をやっていくつもりだ。できることなら、その時が来る前に自分の意思でこの仕事を卒業したいものである。



友人が話してくれた衝撃的な事実

先日学生時代の友人と久し振りに酒を酌み交わした際、彼の父が他界した場所がパチンコ店だったと明かされて驚いた(彼は私がパチプロだということを知っている)。実は10年以上前、私はその葬儀に出席しており、その時の説明では退社後に脳溢血で、病院で亡くなったとのことだった。

当時友人の父は会社の社長であり、世間体もあって事実は伏せられていたのだ。詳しく聞くと、その日の仕事が終わり、息子の彼と一緒にパチンコ店に行って、大好きなギンパラを打ち、大当たり直後に帰らぬ人になったということだった。しかし友人は「大好きなパチンコで当たってから死んだんだから親父は幸せ者だ」と笑顔で話してくれた。これを聞いて私は心から良かったと思ったのだった。