Xデーを間近に控え(最終回)
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こんにちは。コラムを執筆するのは実に3年ぶりとなるが、これからまたパチンコ関係の文筆を再開するというわけではない。縁あって過去の連載コラムを携帯サイトで再録するという話になったが、それも前回をもって終了。そして年内分で1回枠が空いているということだったので、長年お世話になった読者さんへの最後の挨拶というつもりで筆を執らせていただいた。


振り返ればこの21年、色んなことがあったが、パチンコとの出会いで言えばもっと時間を遡ることになる。あれは50年以上前になるが、父親に連れられて自宅近くの場末の小さな店に入ったのが、初めてパチンコを意識した時である。

その時、今は亡き父が私が欲しがったキャラメルを取るために打った台は、今と違って椅子もなく立って遊技するものだった。はっきりと記憶しているわけではないが、玉を一個ずつ盤面に手入れして完全な手動で打つ「正村ゲージ」と呼ばれる機種だったように思う。ただ、幼かったにも関わらず自分もやってみたいという欲求を強く感じたことだけは今でも覚えている。

ちなみに、父が勝つことはめったになかったため、ときどき出玉で取ってくれたキャラメルやチョコレートは、実質的にはかなりの高級菓子だったように思う(笑)。当時薄給だったであろう婿入りの父が、少ない小遣いをやり繰りして幼い我が子のために頑張ってパチンコを打っていたのだと思うと、ちょっと微笑ましい。実際私も子供が幼少の頃、よくおもちゃを土産に持ち帰ったことがあったので、その気持ちはよく理解できる。


それから約15年後の大学1年の時、手動の立ち台で2千円勝ったのが店でのデビューとなり、それを機に私とパチンコの距離は再び近くなっていく。まず部活の資金を工面するために選んだのがパチンコ店でのアルバイトだったのだ。

当時、一般的なアルバイトの時給は200円前後(現在の金額で800~900円程度だろう)なのだが、パチンコ店は300円と破格の金額であった。ちなみに、その店の社長の息子さんがたまたま同じ学校の先輩だったのだが、色々と面倒を見てもらう中で私もそれを意気に感じ、一生懸命に働いていた。

当時、その店にパチンコと麻雀を組み合わせたような「雀球」という遊技機が大量に導入されたのだが、お店が麻雀の役を理解していないと仕事にならなかった。しかし、あいにく店に麻雀を知っている人がほとんどおらず、結果、私に雀球コーナーを担当して欲しいと2代目御曹司である先輩から打診された。当初は「学生アルバイトに新設コーナーは任せられない」と考えていたようだが、背に腹は代えられないということで私に白羽の矢が立ったのだ。

しかし、2代目は私が麻雀を知っていると思い込んでいただけで、実際に私は麻雀についてほとんど何も知らなかった。そのため、私が「麻雀は知りません」と告げると、当初乗り気でなかったこともあり、先輩は「そうか」とあっさり引き下がってしまった。しかし店の役に立ちたいと考えていた自分は、その後すぐ、「でも麻雀の役を覚えればできるんですよね?」と前向きな返答をしたのである。

先輩はこの言葉を聞くなりニコっとして、「じゃあ一週間で麻雀の役を覚えて雀球コーナーへ入ってくれ」と言うので、私も笑顔でそれを引き受けた。その翌日から、授業をサボって2日間学校の図書館にこもり、真剣に麻雀の本を熟読。後にも先にもこの2日間以上に集中して勉強した期間はない(笑)。

そして一週間後、私は新設された雀球コーナーへ入った(もちろんパチンココーナーも手伝っていた)。このようにして、結果的に学生時代の半分以上の期間をパチンコ店でのバイトに費やすこととなったのである。


その後、しばらくパチンコからは足が遠のいていたが、1980年、自身二度目となるパチンコとの劇的な遭遇を果たす。それが「三共のフィーバー機」。それは当時大流行していたスペースインベーダーに奪われていた客を一気に取り戻すことになる伝説の台である。これは今のパチンコの原型とも言えるもので、デジタルが3つ揃いすれば大当たりというゲーム性であった。

これは「玉が役モノに入ったら当たり」という既存のパチンコの概念を根底からひっくり返す斬新なもので(想像しにくいだろうが、当時の常識からしたら想像もつかないものだった)、そして当時としては破格の一撃5000発オーバーという大量出玉の魅力もあって、斜陽だったパチンコ店の救世主となったのである。

ちなみにその頃、私は学校を出て関西の会社へ就職しており、ごくごく一般的なサラリーマン生活を送っている。パチンコとはまったく無縁の状態だったが、フィーバー機の社会現象に興味を惹かれ、久しぶりで店に足を踏み入れることになった。言ってみれば、そういったパチンコと距離があった人を呼び込むほどの現象だったということである。


はたして店内を見回すと、全体的に閑散としている店内とは対照的な一角があった。平日の昼間だというのに黒山の人だかりなのだ。

噂の機種が置いてある現場は、とにかく老若男女、様々な年代の人達がいて、その表情は真剣そのもの。特に大当たり中の人なんかは、時に鬼のような形相の人もいて、とても話しかけられるような雰囲気ではない。まさに鉄火場の様相を呈していた。

その時、たまたま目の前の人が大当たり直後にヤメたので幸運にもすぐ打つことができた。そして当たってびっくり。何と一撃で15000円もの換金ができたのである。ちなみにその頃の物価は今の半分程度といったところで、月給10万円にも満たなかった私にとってこの体験は強烈な刺激だった。

しかし結局それほど深入りすることにはならず、徐々にパチンコ店から足は遠のいてしまう。元来ギャンブル好きな自分がなぜあの超刺激的なフィーバー機の虜にならなかったのか今でも不思議でならないが、しっかりと自制心が働いていたのだろう。もしその時、パチンコへのめりこんでいたら、また違う人生を歩んでいたに違いない。


それから15年後、ついにその日が訪れる。私をどっぷりとパチンコ漬けにする運命の日が。

当時、月に数回、職場の同僚と退社後に麻雀をやっていた。その待ち合わせ場所が近くのパチンコ店だったのだが、その日はメンバーの一人が残業のために1時間程遅れることになった。私はいつものように店内の待合室にいたのだが、パチンコを打って時間を潰していた同僚が「隣の新台が空いだがら○○ちゃんも打ってみろ」と誘いに来たのだ。

当時私はパチンコにのめりこむのが怖かったので、いくら同僚から誘われても頑なに断っていた。この日も、普段通りに断っていれば何のことはなかったのだが、わざわざ私のために台を確保してくれた彼の気持ちを汲み、たまにはいいかと1000円だけ打ってみることにしたのだ。

ところがお座り一発、たったの500円で3連チャンし、ものの30分で1万円以上の金を手にしてしまった。その記念すべき(?)台は京楽の「それ行け銀平」という機種である。


この日以来、アフターファイブはもちろんのこと、休日もホールに入り浸った。そして分母400を超えるような台でも閉店ギリギリまで平気で現金投資を続けていた。回転率や釘はほとんど無視しているにも関わらず、である。悲しいかな、根性だけは人一倍だったので、必然的に負けがかさんでいき、パチンコだけで月に20万以上は使ってしまった。それでもこれが自分の小遣いの範囲内なら問題ないのだが、しがないサラリーマンの私の使える金は月に6~7万が限界。そうなると、流れるように高金利の消費者金融に手を出してしまう。

冷静になれば引き返すチャンスはあったはずだが、結果的にはそうはならなかった…。負けず嫌いの私は、パチンコで負けた金は絶対にパチンコで取り戻すと決め、ますます泥沼にはまり込んだのである。

今考えると、その頃頻繁に打っていた2回ループのフルスペックで、たまに爆裂して10万くらい勝ってしまったのが火に油を注いだのだと思う。トータルでは圧倒的に負けていたのだが、5回に1回くらいしか勝てなくても、勝った時の喜びが脳裏に焼きついてヤメるにヤメられない。要は重度のギャンブル依存症に陥っていたのである。


そして極めつけで、ガセ情報を際限なく売り続けるパチンコ攻略会社に引っかかってしまう。とにかくその頃は経済的にのっぴきならない状況に追い込まれており、藁をもつかむ心境でそれに飛びついてしまったのだ。その情報は一番安いもので、1ネタ5万円。

例えば、最初に5万円で購入した平和の「CR黄門ちゃま2」の攻略法は、「スタートチャッカーに玉が入ったら右デジタルが停止する直前に2~3発打ち出す」というようなバカげた類のもので、パチンコに詳しい人であれば明らかにガセと分かるような代物。

当たり前の話だが、こんなもので絶対に勝てるわけがない。そして苦情を言うと、「やり方が悪い」「そのホールの台には合わなかった」「対策が入った」などと屁理屈を並べ立て、挙句の果てに「もっと良い情報が入ったので、これなら絶対に勝てます」とより高額な情報を買うように煽ってきたのだ(内容は前述のガセネタを組み合わせて、ちょっと複雑な感じにしたもの)。

もう後がなく抜き差しならない状態だった私は、結局また新たなネタを購入してしまう。今振り返ると「なぜ?」という気持ちしかないのだが、自分を見失っている時はそういうものなのかもしれない。


何にせよ、そんなことを何回か繰り返すうちに遂に消費者金融の借入額が限界に達してしまった。一人身ならまだしも、妻と3人の幼い子供の家庭を持ち、新築して間もない住宅ローンも長期間残っている。まさに崖っぷちだが、事情が事情だけに誰にも打ち明けられず、一人悶々と悩んだ末、とんでもないことを考えてしまった。

「極悪攻略会社と心中するしかない」

要は自爆テロである。人間は極限まで追い込まれると通常では考えがたい行動を起こすことがあるが、この時の私がまさにそうだった。そして計画を実行するにあたり、片道切符で家を飛び出したのだ。

しかしすんでのところで思いとどまった。思いとどまれた。

その後、まともにパチンコの勝ち方をしっかり勉強し、それを地道に実践し、やっと勝ち組に転じて現在に至っているわけである。



ところで、近々、パチンコ専業生活にやっと終止符を打つことに決めた。どんなに遅くとも来秋までには新しい仕事を始めていると思うが、その候補は2つあり、どちらにするかはまだ検討中である。しかしいずれも社会に貢献でき、かつ人様に感謝される仕事なので、現在より収入は下がることになるが、これでようやく親に堂々と自分の職業を言えると安心している。

また、これまで嫌というほど打ってきたパチンコだが、今度は以前の会社員時代のように、わくわくしながら楽しんで打ちたいものだ。まあ少なくとも今までのように、時間まで我慢して打つなどということは極力ないよう願っている。

それにしてもパチプロ生活19年は長すぎた。しかし良いこともいくつかあった。それは3人の子供をそれぞれ希望の学校へ通わせ、妻を外で働かせることもなく家庭を守れたことだ。それと大好きな旅行や昆虫採集のために、会社員時代では不可能だった、1週間以上の長期休暇を何回も取ることができた。これはひとえにそれなりの収入、そして誰にも束縛されない自由という恩恵があったからに他ならない。そういった部分では、パチンコには心から感謝している。


最後に、アマチュア読者の方々に老婆心で言っておきたいことがある。パチンコで勝つには回る台を長時間打つというのが王道だが、現実的にはアフターファイブで優秀台を打てる機械は少ないはずだし、もしあったとしても、それらにほとんど空き台はないだろう。

そこで、勝つことよりも、常に使う金額の上限を決めて打つことを心がけてほしい。そしてもし使える金が不足してしまったのなら、使える金が工面できるまでじっと待つのだ。間違っても金を借りてまで打ってはいけない。まあちょっと残念ではあるが、それがパチンコと上手く付き合う秘訣だと思うし、実際その方法で長い間パチンコを打っている素人の方を何人か知っている。

とにかく、しょせんパチンコはギャンブルには違いないので、最低限の自己防衛は必要だろう。でないと過去に私が陥った、パチンコ依存症の危険が現実味を帯びるような人も少ないながらいるのではなかろうか。

いずれにせよ、読者の方々には末永くパチンコを楽しんで欲しいと切に願っている次第である。