俺は常務からの呼び出しで事務所に向かったのだが、事務所を見渡してもそこに常務の姿はなかった。はて、社長室かな? と思い社長室のドアをノックして中に入ると…大音量の音楽が部屋に充満しており、ドラマティックな旋律が俺を圧倒してきた。耳に刺さってきたのはベートーヴェン、あの「運命」だった。
社長室の奥を見やると常務らしき人物がいるのだが、反対向きに座っており、かつこの大音量である。ノックしようが声をかけようが、「運命」にかき消されて一向に気付く様子がない。埒があかず一度は社長室を出たものの、しばし考え、「いやいやこれではいけない」と思い直し、今度は強めのノックで"運命"に立ち向かうことにした。
再び部屋に入ると、常務らしき人物はこちらを向いて座っていたため、予想外のことにびっくりしてしまった。しかしノックに反応したわけではないことにすぐ気が付いた。こちらを向いてはいるものの、目を閉じて口髭を右手で撫でながら荘厳な「運命」の主題に合わせて体を揺らしていたからだ。心の中でオーケストラの指揮でもしているのだろう。一体どうすれば良いものやら…余計に声をかけづらくなってしまった。
仕方なくしばらく社長室の入口に佇んでいたのだが、嵐のような「運命」が一瞬鳴り止んだタイミングですかさず声をかけると、どっぷりとベートーヴェンに浸っていたらしい常務はさすがに虚を突かれて驚きの表情である。内心笑ってしまったが、もちろん俺は表には出さずに堪えている。
「いつからそこに居たんですか?」
これが常務とのファーストコンタクトとなった。見たところ常務の年齢は40歳前後。分厚い口髭にたらこ唇、ビン底メガネといった容姿で、お世辞にもイケメンタイプとは言えない。さらに、話しぶりは落ち着きのない早口で非常に甲高い声…う~ん、こういうところで人を判断するのは良くないと分かっているが…どうも苦手なタイプが来たなぁという感触は拭えない。
しかし今は別の問題に向き合わなければならない。俺はさっそく荻野目洋子の一件について説明を求めたのだが、初手からなかなかパンチのある応対をしてくれた。
「アタマキタさん。そんなことも分からないんですか?」
いきなりの人を小馬鹿にしたような態度。
「今日みたいな、黙っていても稼働が上がる日にアップテンポな荻野目洋子の曲なんかをかけてたら、お客さまのテンションが上がってしまうでしょ? 出玉が出て割数がどんどん上がってしまいますよ!」
"斜め上"なんてもんではない答えに思考が停止してしまった。ここまで予想外の事象に遭遇すると人間はどうやらフリーズするようだ。何の返答もできずに俺は突っ立っていた。唖然とする俺に、続けざまに常務は言い放った。
「ただし、お客様の少ない日には逆に荻野目ちゃんをかけて下さい。それで稼働は上がりますから。でもこれは諸刃の剣なので、そのままかけ続けていると割数が上がります。注意してください」
未熟な俺にはこのセオリーが全く理解できなかったのだが、何の疑問も持たないまっすぐの純粋無垢な瞳で荻野目ちゃんを熱く語る常務を目の前にして、俺はただただ頷くしかなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
こう感謝を述べることがこの時の精一杯だった。まだまだ世界は広い。世の中は知らないことばかりだ…。
これからどう常務と付き合っていけば良いのだろう? なかなか難しい局面に立たされたわけだが、とりあえず変に刺激するのは得策ではなさそうだ。そこで俺は、荻野目洋子をかけなければ問題ないだろう…と自分を納得させることにして、カウンターから荻野目洋子のCDを持ち出して自分の机の中にしまったのだった。
荻野目洋子の洗礼に眩暈
翌日。出勤するといつものようにタイムカードを押し、すぐさまホールに入った。
…
…
…
荻野目洋子全開でお出迎え中である。
昨日片付けておいたのに…なぜ!? 一瞬混乱したが、なんとなく常務の仕業ではないかと感じた。早速カウンターの女性社員に聞いてみると常務が昼頃ホールに来たらしく、
「稼働率が50%を超えるまでは絶対にオーディオに近づくな!」
と厳命したというのだ。
恐る恐るオーディオ機材を見てみると、当時あまり使っていなかった『DAT』という再生装置を使って荻野目ちゃんが奏でられていた。傍らには荻野目ちゃんがプログラミングされたテープが何本も用意されている。おそらく自分でCDを用意して昨日1日で録音してきたのだろう。正直これにはドン引きだったが、取り敢えずそのまま放ったらかしてホールを離れて別の作業をしていた。
夕方、ホールに戻ってコンピューターの数字を確認してみると、いつもより早めに目標稼働の50%に到達していた。おまけに、その日はそんなに釘を開けてはいなかったのだが、出玉もかなり盛り上がってきている。
俺は荻野目ちゃん効果など絶対に認めないのだが、この時ばかりは天を仰いだ。信じる者は救われるのか!? と。もちろん稼働が上がる要因は他にもたくさんあるのだが、少なくとも結果が出たことだけは確かであり、これには苦笑いするしかなかった。
それからしばらくして俺あてに常務から電話が入った。荻野目洋子のDATの話をしたかったのと、今の稼働が知りたかったのだ。俺は包み隠さず、いつもより早めに稼働が50%に到達したことを正直に伝えた。
するとどうであろう、それみたことかと途端に常務は上機嫌となり、電話口からは勝ち誇ったような言葉が次から次へと溢れだしてくる。しばらくは俺も「はいはい」と話を聞いていたのだが、現在の出玉状況を伝えると様子が一変。甲高い常務の声がさらに甲高くなり、突然すぐにこちらに向かうと言って一方的に電話を切られてしまった。嫌な予感しかしない…。
大至急! 音楽を切り替えろ!!
30分くらい経った頃だろうか、事務所で作業をしていた俺の所に、血相を変えた常務が慌てた様子で入ってきた。開口一番、俺に問い質したことは…