■第1話:プロローグ
中2でパチンコデビュー、住所不定無職で…

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俺が初めてパチンコを打ったのは中学2年。親戚のおじさんに近くのホールに連れて行ってもらったのだが、紙袋一杯のお菓子を取ってきた思い出がある。「中2で初打ち」と聞くとビックリするかもしれないが、当時としてはそれほど早いデビューでもなかったため、特に罪悪感はなかった。それに「○万円」ではなく、「お菓子を袋一杯」ということからも、今とはちょっと事情が違うということが分かってもらえるかもしれない。

昔のパチンコ屋というのは、椅子がなく立ったまま遊ぶ「立ち島」があったり、玉も1玉1玉手で弾いて打ち出すなど現在とは別モノとも言えるほどに違っていた。コーヒーが床にこぼれたままだったり、灰皿がないからタバコもポイ捨て、痰も吐き捨てで清潔感というものも一切なかったが、それすら当たり前という状況だったために特に違和感もなかった。

肝心のパチンコ台だが、これには液晶もなければ役物もなく、ただチューリップが開いたり閉まったりを繰り返すだけ。そんな平台を打ったのが最初のパチンコだったのだが、それでもとても楽しかったという記憶が残っている。それが俺のパチンコとの初めての繋がりだ。

挫折を経て、パチンコへと出戻り

そんなデビュー後もパチンコで遊びたいという想いはあったのだが、さすがに中学生一人で好き勝手にホールに入るわけにもいかず、行く機会が遠ざかるにつけ次第にパチンコのことは忘れていった。まぁ中学3年になると興味が一気に麻雀に傾いたということもあるのだが…。

今思えば若気の至りと笑えるが、阿佐田哲也の小説『麻雀放浪記』の影響を受け、勢い麻雀プロを目指すと堅く誓った。しかしその決意も束の間、同氏の『東一局五十二本場』という別の作品に震撼し、高校1年で強烈な挫折感を抱え、早くも雀プロの道を諦めることになってしまった。結局、高校2年生にして早くも出戻りパチンコ組となった次第。


久し振りに見るホールは初打ちの頃とは別世界で、手打ち機で地道に玉を増やすのではなく、大量獲得が可能なフィーバー機が市場を席巻。しかしその過熱ぶりから10カウント規制が敷かれ(当時はアタッカーに玉が10個以上入ってもラウンドが進むことなく開放し続けており、それが規制された)、出玉が一気に減ったせいで隆盛を極めたフィーバー機の人気に陰りが見えてきていた。

ただしそんな状況に手をこまねいているような業界ではない。出玉が減ったなら別のアピールポイントを作ればいい…と考えたかどうかは分からないが、面白い仕掛け(?)を持つパチンコ機がポツリポツリと出始める。

その頃主流だったセブン機にはストップボタンが付いていたのだが、タイミングを狙ってボタンを押すと簡単に大当たりする…などという嘘のような話が現実に起こっていた。1回当たってもたったの3000円、しかも1回交換という劣悪の条件下だったが、まだまだ攻略法が出回っていない頃は、少額だったが確実に稼げた。高校2年生のクソガキだった自分は、一気にテンションが上がってしまった。

「大好きなパチンコで一生食って行けるんじゃね?」

今思えばアホ丸出しだ。しかし当時は本気だった。学ラン姿で元気に家を出て、それを途中でスポーツバックにしまいこみ、颯爽とパチンコ店に通うようになるまでそう時間はかからなかったし、間もなく高校を中退してその勢いのまま家を飛び出してパチプロ生活に突入していったのである。

それからというもの、関東一円のパチンコ店で目当てのセブン機を探し回り、一人で黙々と、ただただひたすら打ちまくっていた。17歳にして、クズ人生一直線のパチプロが一丁上がりというわけだ。当たり前だが、当時はインターネットなどという恐ろしく便利なものはないので、文字通り足を棒にして歩き回り、まさに足で稼いでいた。

住所不定無職で競馬漬けの毎日

それから時は流れて19歳、住所不定無職、サウナ暮らしで競馬漬けの毎日という、絵に描いたようなヤカラ生活にどっぷりと浸かっていた頃の話だ。雑誌などで攻略法が広く出回るようになったことで、ストップボタン付きのセブン機は一気に撤去。それに呼応するように、セブン機を打っていたパチプロたちは一斉に、「パチンコは終わりだ」と言って消えて行った。

しかし自分はちょっと違っていた。当時のホールで準主役になり始めていた、「一発台」と呼ばれるもの手を染めていったのである。これが自分の人生を変えることになるとは知る由もなかったが…。