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回想の刻(特別コラム)
※2017/2018年の年末年始特別企画ということで全ライター共通テーマで書いています
●誕生~小学生時代

1973年(昭和48年)1月8日に宮崎市で誕生しました。家族構成は公務員だった父と、専業主婦の母、兄弟は2歳上の兄と5歳下の弟の5人家族。1人娘ということもあり、特に父からは溺愛されて育ちました。
幼少期の出来事で必ずみんなに驚かれることは出生時の体重。なんと私、5200gの超BIGな赤ちゃんだったんです!! 母は3日間陣痛で苦しんだ末に産んでくれました。
なんでも、お医者さんはあまりのお腹の大きさに「お腹の中の子は双子だろうけど、心音が1つしかないから1人は死んでるんだろう」と思っていたんだとか。だから、帝王切開ではなく普通分娩で生まれたわけですが、産んでみたら5000g超えのデカすぎる赤ちゃんだったのでみんなビックリ!! 今だったらこんなこと考えられないけど、45年前はエコーなどはなかった時代ですからね。
そんなわけで私の母子手帳には「巨大児」との記載があります(笑)。ちなみに、未だこの体重を超える人に私は出会ったことがありません。私より出生児体重が重いよ、という方は教えてくださいな。
●中学生時代

中学の頃の最大の思い出は、以前このコラムでもお話しした「ラブレター事件」ですね。
あれは中1のバレンタインデー。私は当時大好きだったA君にラブレターを書いたんです。その内容は…もう思い出したくもないほど「好きです。好きです。どーかこの想いに応えてー!!」という一方通行の想いをぶちまけたもの。…まぁでも、ラブレターとかファンレターとかって、そんなものか(汗)。
そして、どーしても返事が欲しかった私は、なんと返信用切手も同封したのでした(赤面)!! ギャーッ、もうもう、タイムマシンがあれば手紙を投函する直前の自分をブン殴って阻止するのに。
で、A君からの返事は「NO」。フラれちゃいました。
その後、A君とはクラスが一緒になることもなく、高校も別々だったので会うことはなかったんですが、以前Facebookが流行った時にふとA君を検索してみたら、難関の某国立大学に進学し、小学校の卒業文集で書いてた将来なりたい職業に就いて、2人の子供を持つパパになっていました。努力家のA君らしい立派な人生を歩んでいるようです。
●高校生時代

高校時代の思い出…う~ん、特にないなぁ。でも今でも付き合いのある友達ができたのは高校時代ですね。
ああ、そうだ、思い出した!! 一番の思い出と言えば「修学旅行で初めてディズニーランドに行ったこと」ですかね。
写真のパンフレットは約28年前のもの。赤丸が付いているのは…乗ったアトラクションだったはず。スペースマウンテンに5時間ぐらい並んだっけ。当時の1DAYパスポートは…4400円だったのか、安いなぁ。今は7400円だからね。
あー、そうそう。修学旅行といえばもう1つ思い出が。
東京で丸1日自由時間があったのですが、友人たちがみんな原宿にある芸能人のお店に行く中、私は一人で山手線に乗ってあちこちの街をブラブラしてました。だって私、芸能人に興味なかったし…。当時は松田聖子や酒井法子、山田邦子など、色んな芸能人がお店を開いてたんですが、今もまだあるのかな?
●20歳

短大卒業後に某証券会社に就職。証券会社なので仕事は目標という名のノルマが山ほどあり、とてもキツかったです。ゴルフ会員権を持っている人などの富裕層リストが渡され、片っ端から電話をかけて株や債券を勧めたり、1件1件DMを投函してその家に電話したり、大変だったなぁ…。今は個人情報保護が厳しいので、こういう「電話アタック」はできないでしょうね。
ちなみに、写真は会社の先輩たちと宮崎の生駒高原に遊びに行った時のもので、真ん中が私。当時の先輩や同期のメンバーたちとは今でも交流があります。仕事は辛かったけど、人間関係には恵まれた職場でした。
●21歳

人間関係にも恵まれ、仕事も表彰を受けるほど順調で、給料も同年代の女子の中ではダントツに高かったのですが、やはり営業職は精神的に辛くて辛くて…。日曜日の夜、「天才たけしの元気が出るテレビ」を見終わると、気持ちがズーンと沈むようになってしまったんです。そしてよくよく考えた末、1年6ヶ月で退職しました。
そして、日中暇になった私は、暇つぶしにパチンコ店へ。そこで出会ったのがこれ、「CRギンギラパラダイス」!! この出会いがなかったら、今こうしてパチンコライターになることもなかったんだろうんな~。
その後、某会社の事務職に就いたのですが、仕事帰りや土日はもっぱらマリンちゃん。当時はアレパチなどの一撃大爆発台やCR大工の源さんなどの確変2回ループ機など、今思えば夢のような爆発台がいっぱいあったのに、そんな台には見向きもせずにギンパラばーーーっかり打っていました。
●24歳

23歳の時に結婚し、24歳で息子を出産。宮崎→長崎→宮崎→鹿児島→熊本と夫の転勤のたびに引っ越してましたね。息子も小・中学校を2回転校しました。転校のたびに嫌がる息子を見て、親としてもとても心苦しかったのですが、おかげで人見知りせず、誰とでも仲良くなれるフレンドリーな性格になってくれました。
パチンコはこの時代、確変の継続回数は5回リミッターになるし、パチンカー人口は激減して倒産するホールが続出するしで、まさに「暗黒期」。
しかし、そんな時期に現在まで続く大ヒット機が登場しました。それが「CRルパン三世K」。ギンパラが撤去されてしまい、ショックで沈んでいた私を救ってくれた機種ですね。不二子はしご予告では不二子の下着が黒パンツだったら激アツだったっけ。
●現在

現在は熊本在住。息子も今年成人式を迎えます。残念ながら子供は一人しか授からなかったけれど、その分自分の時間も作りやすく、自由気ままにパチンコライフを送っています。
パチンコスタイルはご存知のように羽根デジで出玉を稼いでミドルで勝負する「わらしべ長者打法」。よく打つ機種はギンパラの流れを汲む海シリーズやパワフルシリーズ、原作のファンである化物語など。
とまぁ、かれこれ20年以上パチンコを打っているわけですが、最近は液晶や役物などの進化に驚かされる日々。昔、「CRレモン牌(1996年)」でリーチ棒が液晶上からピコンと出現しただけで「おおーっ」と感動していたのに、今では大きな剣や亡霊の手、ロゴマークにサーチライトなど様々なものがドドーンと落下しちゃうんですもん!! パチンコ台の進化って目を見張るものがありますよね。
●未来

そして近い将来、夫が退職したら私の故郷である宮崎に夫婦で永住する予定。息子も一緒に…なんて思ってたんですが、息子は熊本で就職したいと言ってます。家族がバラバラになるのは寂しいけど仕方ないですね。
私の両親も70代。まだまだ元気ですが、そろそろ介護のことも考えなくちゃ。夫の両親ですが、義母は夫が20歳の頃に、義父は4年前に亡くなりました。転勤族なので近くに住むことはできませんでしたが、義父が癌の手術をする際、1ヶ月間病院に付き添ってあげられたことが、せめてもの親孝行になったかな。
次は自分の親を看る番です。10年後には親の介護をしつつ、息抜きにパチンコを打っているんじゃないかな。その頃には現在の規制が緩和されて、マックスタイプが復活してくれてるといいな~。