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- 打チ人知ラズ。(わし)
風化させない
明日、あの日から4回目となる「3月11日」を迎える。まずは犠牲になられた方のご冥福を心から祈るとともに、いまだに避難生活などの苦難を強いられている方々が一刻も早く元の生活に戻れるように祈念させていただく。わしもひとりの日本人として、生活の復興、心の復興を強く希望している。
また、それぞれの方にそれぞれの形の3.11があると思うが、全く無事であったわしにもわしなりの3.11があった。今回はそのことを書いていこうと思う。
わしの2011年3月11日はパチンコ稼動日ではなく、バイト先の出勤日で10年来の兄貴分である男性社員と行動を共にしていた。彼と共に午前中の仕事をそつなくこなし、午後からはまた別の仕事先へ向かい、そこで「14時46分」を迎えることになる。
最初に揺れを感じた時は、「あっ地震だ!」という程度だったが、この揺れがあっという間に猛烈な横揺れとなって恐怖とともに襲ってきた。その時はビルの5階にいたのだが、ある程度の高所で震度5強に晒された経験はわしとしては初めてのものだ。
この時のわしはその場に立ち尽くすことしかできず、学生時代の避難訓練などで「机の下に身を隠しましょう」的な教育は受けたけれど、結果的にはそれらは全く役に立たなかったことになる。
目の前で猛烈な揺れに晒されている同行者、そして辺りにある什器や備品の類が今にも崩壊せんばかりに音を立てて荒ぶっている様も目に入っているし、それが現実だということまで理解できているのだが、いかんせん自分がどうすれば良いのか皆目見当つかなかった。振り返ってみればこれはまさにパニック状態であり、わしは思考停止状態に陥ってしまったのだろう。そうなるほどまでに、わしにとっては初めて体験する恐ろしい出来事だったということなのだ。
一方の同行者だが、立ち尽くすわしを尻目に俊敏なる動きで部屋で一番太いと思われる柱に背中越しにしがみついた。わしは精神的にひどく混乱しながらも、『普段見せるどんな行動よりも素早いなぁ』と感心したものである。
同行者は無防備に立ち尽くす10年来の弟分に身を守る指示も出さなかったが(もちろんそんなことで恨みもしないが)、とりあえずわしも彼に倣い背中を柱に押さえ付け、腕で頭を守って揺れが収まるのを待った。もちろんあの未曾有の揺れの中で誰もが混乱していただろうから、何が起こっても不思議でないし、何か不備が起こるのは当たり前である。
しかし、この猛烈な揺れの中で、普段使っていない頭がめちゃくちゃな高速で回転し始めるのには我ながら驚いた。まず、いま寄って立つビルが「耐震偽装問題」以降に建てられたものだということに思い立った。そして、もちろんこの時点で地震の規模は全く不明だが、恐らくこのビルは最新の耐震基準を満たしているだろうから、もし建物の倒壊で自分が死亡するのであれば、最新の耐震基準を越えてしまった末の不幸だと諦めもつくもんだと、変に冷静にもなった。
これがもし自宅(木造長屋)での被災であれば、建物倒壊の危険性は極めて高く、安心して部屋にはいられなかっただろうし、その際の恐怖たるや想像もつかない。さらに、万が一倒壊するような事態になっていたとすれば、堅牢なる建物に住むべきであったと激しく後悔していたに違いない。その点、被災先という点では運が良かったのかもしれない。
余談ながら、先日この被災先を訪れた時に床と柱の継ぎ目のひび割れを修理していた。それを見て受付係の女性に「僕は3.11の時にココにいたんですよ」と告げた。すると、「そうだったんですか。(中略)でもこのビルは震度8でも大丈夫なように設計されていると聞いてますよ」と教えてくれた。
わしは『震度8ってあるの?』と疑問に思ったが、同行者は「そんなこともありましたね~」と呑気に懐かしんでいた。わしと同行者の日常はあの時と全く変わっていない…。たぶん、それが幸せなのだろうと思っている。
さらに頭は働き、結果的には見当違いだったが、前々日にも結構な揺れを感じた地震があったため、この地震がその余震だろうと考えた(実際はこれが本震で前々日のものが前震だったのだが)。となれば、そこまで大きなものではないのかも…とも思ったが、ビルの眼下に見える慌ただしい人の動きが、この尋常ならざる事態を物語っていた。もちろん、この時点では携帯の通信障害で地震の詳細な情報は得られていない。
そして、被災先がJR上野駅の近くだったのだが、山手線が運休して帰る術を失うことを恐れ、「山手線のレールは無事なのか?」ということが最大の懸念として浮上した。
タクシーで帰るにしても、そもそもタクシーを捕まえること自体が困難であろう。となればここは他人より早く行動した方が良いだろう思い、仕事をこなしている同行者に「早く帰りましょう」と渾身のしつこさでせっつきまくった。すると同行者も早く帰ることに全く異存ないようで、「以心伝心」が成立して上野駅へ急いだ。
しかしすでに山手線は運行を停止しており、駅舎は混乱と人だかりであふれかえっていた。もちろんのこと、善後策であるタクシーやバス乗り場には見たこともないほどの行列ができている。
それだけではない。恐らく地下鉄が止まったために浅草寺から上野駅まで走らせてきたのだろう、「人力車」までやってくる始末だった。浅草寺からの距離は知らないが、運賃を払ったお客も必死だったろうし、人力車を引く人の疲れ方がここまでの苦難を物語っているように推察された。わしは車上で静かに座っていた金持ちそうな男性を見て事態の深刻さが決定的に理解できたから、わしは推定2時間かけて「徒歩」で帰社することを決心した。
まぁ決心はしたのだが、なんせお互いに10キロ程度の商売道具を抱えている。いざ歩き始め、これから数時間歩くことを想像すると、その時点でどっと疲れてしまう。そこに激しく動揺した同行者は機転を利かし、この状況では到底捕まえられそうになかったタクシーを捕まえてしまった。
わしら2人にはバスやタクシー待ちをしている人より豊かな土地勘があったから、走ってくる車の流れを熟知していたのが幸いした。この教訓として、平時の観察力がいかに大切かということを思い知らされた。また、人間が嫌なことを避ける際の閃きみたいなものにはとんでもない力があるということも同行者から教えられた気がする(笑)。
車内で流れるラジオは盛んに「九段会館の屋根が落ちた」と速報していた。ちなみにこの時の運転手が非常に機転の利く人で、遠回りながら東大の赤門経由の抜け道で停滞なく帰れたのが素晴らしかった。もう少し判断が遅れていたら車が動かない事態になっていたことを付け加えておく。
そんな束の間の安堵の中、車内でおかん(母親)からの安否確認で携帯が鳴った。後々考えれば、あの電話回線の混乱状態の中で良く通じたと思うが、母が子を思う気持ちはシンプルに嬉しいものである。これが絆というものであろうか。
そして帰社してからあの大津波を知るに至った。言葉にすると随分軽くなってしまうものだが、もう本当に心が痛んで仕方なかった。東京も激しく混乱し被害も大きかったが、あの津波の映像を前にすると言葉を失ってしまう。
今回はあの日のことを「決して風化させてはならない」との思いから、わしの3・11体験談になってしまったことをお許し願いたい。
パチンコ的には、のちに起こる「輪番停電」などの電力問題に苦しめられることになるが、それは機会があれば来年にでも綴ろうと思う。くどいようだが、すべての苦難を強いられている人達が1日も早く震災前の状態に戻れることを切に願っているのだ。
追記
ついに三月場所で、わしが次の大関だと確信する「照ノ富士春雄」が新関脇にまで番付を上げてきた。新三役で新関脇は少々番付運に恵まれている気がするが、これも春雄の逸材ぶりからすれば当然かもしれない。小結を経験せず大関に昇進すれば、これはこれで大記録だろう。とにかく、若い今が頑張りどころだ。ただし、今のところ春雄は下がってからの相撲だからケガが心配でもあるが…。
そして、年頭の夢番付で名前を上げた川成改め「天風(あまかぜ)」、堀切改め「阿炎(あび)」の2人が新十両昇進を果たした。天風は師匠の尾車親方が寝ずに一晩かけて考えた暁風(ときかぜ)の四股名を断ったのだから(これは大変素晴らしい命名だと思った)、師匠をも驚かす奮起を見せるしかない。十両でも充分通用する実力は既に備わっているだろう。
阿炎は押し相撲が大の苦手らしく、相手のつっぱりにモロすぎる。手足の長さを活かした先手必勝の相撲に磨きをかけてほしい。まあ共に若いから、じっくり力を付けていってもらいたい。若手の台頭著しい大相撲界は面白いのだ!