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- 打チ人知ラズ。(わし)
あっちゃんは偉大だった!?
子供の頃、「機動戦士ガンダム」が再放送されていた。現在と比べればアニメなどの児童向けコンテンツが少なかったという事情はあったのかもしれないが、繰り返し放送されたのにはそれなりの価値が認められていたからだろう。そして多くの子供達(主に男子だろうが)は、見事にその世界観に嵌まっていったわけだ。言うまでもなくわしもその一員で、放送を見ているうちにいつの間にかガンダム好きになっていた。
そういったわけで、わしと同世代の人間がガンダムという通過儀礼を経ずに大人になるというのは稀だったのではないのだろうか。わし世代にとってガンダムとは、それくらいに圧倒的なアニメコンテンツなのだ。もちろん、それぞれに好き嫌いはあっただろうが、その世界観には揺るがし得ない絶対性がある。
まぁ子供目線での興味と言えば、「どのモビルスーツが好きか?」とか「一番弱いモビルスーツはどれか?」という程度で、アムロの成長がどうだとか、ジオンとは何かとかニュータイプとは? など、大人が本気で深堀りしてしまうようなテーマなど思いもよらなかったわけだが…。
わしらといえば「どうでもいい話」にこそ熱くなったし、小学校の級友達と、いま思えばどうでも良いテーマについて、それこそ喧嘩になるような激アツな議論を交わしたものだ。
ちなみに、当時のわしは、パイロットのカイ・シデン君はどうでもよかったが、時折見せる会心のキャノン砲で仲間の窮地を救うガンキャノンが大好きだった。しかしわしは当時から若干へそ曲がりで素直ではなかったから、「ガンタンクが好きだ」と偽りを言ってやり過ごしていた。
しかしそれが墓穴を掘る羽目になるとは思いもしなかった。というのも、ガンタンクは子供目線でもカッコよく見えないから、それをネタにいじめられてりするわけだ。子供というのは本当に残酷な一面がある。
どうでも良い話を引っ張って恐縮ではあるが、さらに言えば、モビルスーツの弱さについての議論では、ザクとジムが両巨頭、ド定番だった。
しかし宇宙で両軍入り乱れての最終決戦時に、ジムがドムを倒す場面が描かれていたりしたから、「もしかしてジムって強いの?」とジムの侮り難い実力に、子供たちの精神世界に秩序の破壊をもたらしかねない衝撃が広がった。大袈裟に思うだろうが、子供にとっては本気の重大事だったのだ。
一方では「ザクとドムではザクの方が弱いに決まっている」と、これには何の根拠もないが、絶対的な真実のように受け入れられていた。しかしこれまた衝撃が走る。同じ宇宙でジムがザクに倒されている場面を誰かが見たと言い始めたのだ。わし達は大いに迷い、結果的に最弱モビルスーツの結論も出ずじまいになってしまった。
それから時が流れ大人目線になると、その壮大なストーリーやアムロとシャアのライバル関係、そこに付随するサブキャラ達も様々なバックボーンを背景とした個性があり、躍動感タップリに描かれていることが見えてくる。
個人的にはブライトの「囮専門でもか」は珍ゼリフとして、また「殴られもせず一人前になった者などいるものか」は、名ゼリフとして記憶している。しかし、ギレン総帥の自軍兵士の戦意を煽る演説での「あえて言おう、カスであると!」には敵わない。これはブライトが悪いというより、ギレン総帥がキャラクターとして偉大すぎるのが原因だろう。
余談ながら、この「子供の頃に好きだったコンテンツ」はパチンコの開発にとっては極めて重要な要素となっている。その証左として、昨今では40代になった団塊ジュニア世代をターゲットにした昭和60年前後の版権モノが多く登場している。
わしもガンダムのパチンコ台の虜になった。子供の頃から知っているキャラクターだから、すんなりパチンコ台で表現されている世界観に入っていける。しかしここでは、ブライトの「役立たずぶり」に難渋を強いられているのだが…。
まぁそれはともかく、パチンコ台においては、あくまでアムロとシャアのライバル関係におけるバトルがメイン演出だ。これはアムロ派、シャア派の双方にも納得の演出で、MAX機に相応しい激アツバトルが展開されていると言っていいだろう。
唐突だが、ここで「バラの儀式」について考えてみたい。導入直後、タケシと隣り合って打ったのだが、推しメン選択時に「ホントはあっちゃん(前田敦子)がいいんだけど、今回いないんだよね」と、寂しそうに呟いていた。この時、わしの推しメンは、あっちゃんではなかったから軽く聞き流していたが…。
ところが、様々な人とバラの儀式について話し合うと、「やっぱりあっちゃんは偉大でしたね」など、あっちゃんが抜けたことに関して、正直に残念な気持ちを語る人が実に多いことに驚いた。また極端な意見では、「あっちゃんがいないから打たない」とストレートに言う人もいた。
この話の前提は、わしと同世代(40歳前後)のパチプロではない人たちの意見だということだ。すなわち、前作で初めてAKB48に関心を持った層である。わしも例に漏れず、きたりえさんを知ったのは、ここ2~3年の分際だが、最近では「きたりえさんは超絶美人だ。たらこ唇が大好きだ!」などと述べるに至っている。
要するに、わしのようにAKB48の入り口がパチンコ台だった層にとっては、前田敦子のいないAKBは「アムロのいない機動戦士ガンダム」に近しいのではないかということだ。
仮に置き換えて考えてみれば、シャアのライバルがブライトでは話にならないし、ブライトが主役では誰も見向きもしないであろう。また、ブライトがガンダムを操縦する姿は…考えられない(考えたくない)、と、こうなるのは至って自然であろう。
結局、すでに指摘していることではあるが、前作で「アイドルが空き家」だった40代の中年おじさん世代のハートをガッチリ掴むことに成功した。機種のデキの良さやスペックのお手頃感にAKB48という現役アイドルまで加わることで、国民的パチンコ台との評価を得るまでになった。
わしなどは(大島)優子がいれば問題ないと思っていたが、今作では、あっちゃんが抜けてしまった…からかどうかは分からないが、結果的にはシマの賑わいもイマイチだ。あっちゃんが直接的な原因ではないにせよ、あっちゃんに育てられたファンが中年層に多かったのもまた事実のようだ。
2代目の難しさは偉大な初代の存在があるからなのだが、やはり「7図柄は偉大だった」と改めて思っている。
わしもいつまでも今作のAKBに期待していられないわけで次のステップを踏み出さなければならない、と前回のコラムでも書いた。つまるところそれが上手くいかない故に、恨み節ではないが、ふとアムロのいないガンダムを思い浮かべ、むべなるかな、さもありなん、としみじみしてしまったわけだ。繰り返しになるが、なんとか生き残る道を模索しなければ冬は越せない。